論懐の余裕は心の余裕を生むのか 

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利己主義論

どこか怪しいセミナーに行ったわけではない

綺麗な景色を見たわけではない

ただ、相変わらずの忙しない帰り道に電車に揺られながらふと考えたことを


懐の余裕は心の余裕を生むのか?

 

金があるほうが、心の余裕が持てて人に対する優しさを持てるのだろうか

貧乏な暮らしをしているほうが、人の痛みに気づけて人に優しくなれるのか

よく言われていることだけど

どっちだと思う

キーワードは”利己主義”となのではないかなと思う

利己主義は金があるとき持つものだと考えられているが

寧ろ貧乏な状況の方が強く持つものだと思う

お金の使い方には二種類あって

一つは、生きていく上で必要経費

二つ目はそれ以外の贅沢

家賃や食費、スマホの通信代、学費などが前者で

3万円のスニーカー、30万のパソコン、300万の時計などが後者

もし資本主義社会の中でマイナスの立場に置かれた時、

いわゆる貧乏になった場合、

必要経費すらお金の捻出に苦しんだとする

(尤も、努力を伴うことは大前提で)

そうした時、人は自分の状況を受け入れられなくなる

なぜ自分はこんなに頑張っているのに今もこんな暮らしなんだろうと

そして社会に対し

ある人は諦め

ある人は劣等感を抱き

ある人は反抗し、報復しようとする

そんな感情の中で”利己主義”は生まれていく

利己主義自体は悪いものではない

必要悪だ

もし、貧乏な状態で一日中ボランティアやただ働きをしていたら

それこそ死まっしぐらだ

”利己主義”は”生存本能”に近い

ただ、利己主義を続けていくとどうなるか

おそらく対価、メリットの無いもの、人しか意味を持てない人間になる

具体的にいうならシンプルに”応援する”、”ファンでいる”というのが理解出来なくなる

そして人に対してもメリット・デメリットを分析して動く人間になる

こいつはこんな能力があると見抜く代わりに、凡人とは相容れない

恋愛も、あまり相手の内面に意味を感じない

物質的な恋愛しかしない

並べたそれは外に対しての自分自身への変化なんだけど

もっと良くないのは

相手に見せる自分を変えていく

自分の常識が書き換えられてしまう

つまり、自分だけがメリット・デメリットで動く人だったんだけど

そのうち相手も自分に対してメリット・デメリットで動いているという思考になっていく

これは一見気まぐれに見えるが、”利己主義”な人間にとっては原理原則に則った論理的な思考回路だ

利己主義なら無意識にこう考えている

相手の心なんかしれない

なら自分の信じる判断基準の中に相手を置くしかない

そのほうが不確実でいるより信頼が出来る判断基準で、メリットだからだ

その自分が信じる判断基準というのが、”利己主義”だ

つまり、自分だけが”利己主義”だったはずが

社会のみんなが”利己主義”に見えてくる

隠して

敵を作るのは自分自身

そして最大の敵は自分自身

という状態が生まれる

そして話は振出しに戻る

懐の余裕は心の余裕を生むのか?

ということだ

懐の余裕は心の余裕を生むのか?

ただ、この話の本質はなんだろうか

まず認識合わせをしなくてはならないのが

”懐の余裕”ってなんだってことだ

この話の肝は、

忘れてはならないのは

実はこの話は

資本主義の中で起こりうるってことだ

資本主義とは詰まるところ”競争”だ

競争がこの話の本質、肝心要である

結局、貧乏も金持ちも定義は曖昧で決められない

1000万円の貯金があったら金持ち?

まだまだ足りない?

1000万円あっても周りの人間が全員10億稼いでいたらどうだろう

どれも相対的な評価でしかない

勿論周りと同じように10億稼げるようになっても相対的な評価を下す限り終わらない

いつ落ちるか分からない不安は付きまとう

終わらない”競争”に乗るか乗らないかだ

僕らはその競争に乗る限り、”利己主義”の中に居る

ただ、例外として

金に魂を売らなくても

必要最低限のお金が無い事で生まれてしまう”利己主義”もある

それは資本主義社会の罪だ

これまで資本主義は人を物質的に豊かにしてきたしこれからもそうなっていく

物事には裏表があってプラスも生まれるが同時にマイナスも生まれる

じゃあどうしたらいいか

詰まるところ

どうしたら心の余裕は生まれるか

競争が生まれる社会で幸せの基準値を上げるひとつの要素は

競争に負けた場合のセーフティネットの強さ、多さではないかなと思う

セーフティーネットというのはいわば、社会の”心理的”且つ”物質的”な安全装置、安全網である

歴史を見ても、セーフティネットの無い社会は全体的な秩序を失っている場合が多い

比例して不幸になる人が多いっていうことだ

国民国家が成立する以前は、

家族、宗教といったコミュニティの互助的仕組みがセーフティーネットだった

宗教は信者の妄信にのみ依って成長したわけではない

仏教も、キリスト教も元は弱者の集まりである

教会は病院や孤児院、宿泊施設、教育機関としての機能も併せ持つ

互助というセーフティネットの概念があったからこそ宗教という概念は成り立ったと思っている

物質的にも助かった人も多く、心理的にも助かった人も多い

ここで面白いのが

セーフティネットは心理的なもの、そして物質的なものの二種類があるということだ

対して時代は下り、

近代的な国民国家のセーフティネットは

”法”であり

国家の信認に変わっていく

法を破って社会を侵すものに対して刑罰をするという約束で安全を保障する

無論、法の信頼度は国家の信頼度に比例する

信頼とはつまるところ論理だ

昔は魔女裁判とか天動説とか地動説でドンパチやってたくせに

近代になるにつれ、論理と法しか信じられなくなっていく

(そして、その法の下で

自由自在に巡り巡っているのが

”金”とポリス!!!

これが簡単な法治国家の仕組みであり

それこそが資本主義だ)

現代になるにつれ、占いとか神とか宗教とか精神世界と物質的なものが徐々に隔離されていく

ここが個人的にとても面白い

人間は0か1で決められるものではないのに

0か1の世界に支配されている

0.4やら1.2が許された時代があったんだけど

もう過ぎ去った

消えうせて既に久しい

つまり現代は物質的なセーフティネットはあっても

心理的なセーフティネットは限りなく少ないといえるのかも

心理的なセーフティネットなんであってもほぼないようなものだ

怪しい宗教団体とか占い師とかばっかり

論理で殴ってすぐ壊れる

安全地帯は無いよ

だからこそ現代人は心を病みがちなんではないかと思ったけど

単純に昔はセーフティネットからこぼれて死んでたはずの人間たちが

現代の論理と法によって生きながらえているだけなのではないかとも感じられる

というわけで今東京は心が死んだけど身体はまだ動く無数のゾンビたちで溢れている

ただ、競争社会が健全にあるためにセーフティネットを多く作るというのも大事なことではあるんだけど

必要悪な利己主義に陥る人を減らすという対処療法でしかなくて

根本的に必要悪な利己主義に陥る人を陥らせなくさせる行動とは言えない

どうしたら心の余裕は生まれるか その2

っていう話だけど

結局人間なんて人間なんだよ

人間だから比べてしまうんだよ

それだけだよ

でいいじゃん

暴論だけど

結局法の順守とは

個人の倫理観に行きつく

倫理観とは

人倫の道のこと、つまり社会生活で人の守るべき道理のことなんだけど

そして詰まるところそれはどこまで自分が許容できるかということでしかない

倫理と感情を天秤にかける

法を犯すほどの強烈な憎しみや臆病というものを

人は持つことがあるけど

その位しんどくなったら

茨の道を楽しむくらいでいい

一旦そういう自分を客観視できるくらいがちょうどいい

メタ視点

資本主義の功罪

やさしさの定義

人は金をひたすら稼いで、その金を持ってどこに向かうのだろう

いくら貯まらないととかより

ステータスになるとかより

持たざるものより、持っているものを見ていたい

という感情を心に入れておきたい

優しさとは何か

自分にとっての安全装置はなにか

もっているものを自覚して

せっかくなら綺麗な使い方がしたいよね

と思った夜

 

 

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